人を屈服させること
人を傅かせること
一見同じような意味合いにも取れるが、私の考え(望み)では両者には大きな違いがある。
前者はより能動的な行為であり、後者はより受動的な行為であると思う。
物理的な方法を用いて力で相手を屈服させると同時に、相手の心を読み、完全に自由を奪った上で、私だけが相手の世界となるように持っていく。
自分の考えで洗脳し、思い通りに動く人形とする。
「あなたがやれというなら、あなたに認めてもらえるなら、私は何でもします。」
「あなたの言葉がすべてです。間違っているならどうか存分に罰して下さい、、、。」
妄想上では、これだけ相手に影響力を持てるなら、正直後先考えずに持ってみたい。
特に力があると認められている人間ならなおさらだ。
普段見せない弱い面をさらけ出させてひれ伏させ、強く罵倒すると同時に甘言を弄し、畏れさせつつ喜んで隷属させる
私の顔を見た瞬間に、また私の一声で思うとおりに行動させる。
想像するだけで何やら沸き立つものがある。はっきりとした映像も浮かぶ。
やはり生来的に他人を屈服させたい望みは少しくあるようだ。
多くの期待に答えられるだろうか?
、、、しかし、一見絶対的に見えるこの関係から得られるものは限りなく小さい。そしてその影響力は目に見えて薄れていく。
人が人に屈するとき
それは責める相手の中に自分の人格を認める時だ。言い換えれば自分自身を責めたり罰したりしているのと同じ。その意味で攻める相手は道具でしかない。
人形と道具
これではどちらも同じ。一過性であり、状況を継続させることは困難であり発展もない。
試してみたい欲求はあれど、望むものとはかけ離れている。
人を真に傅けること
相手の真の望みに当人よりも先に気付き、本人が持てるもともとの能力と共にいかに気付かせるかを模索する。
とことんまで追い込み、刺激し、感情のエスカレーターを何度も経験させる。
相手の性別や嗜好(性的なものも含む)に沿って行うものの、そこには常に敬意がある。
そしてすべてをさらけ出させ、気付かせる。
より自由になれるように、より成長できるように。
正面から向き合って見守る。
その結果、敬いのこもった態度が返ってくる
もちろんそこに、ある意味での陶酔や情熱があっても否定はしない。
どこまで応じられるかは状況と度合によるが。
あなたはどちらがお望みだろうか?