戒め故の至福

 

「ごめんなさい、そんなつもりじゃなかった」

「私が悪かった。どうか許してほしい」

 

「、、、ああ、良かった。安心した。」

 

 

 

思えば学生の頃は、謝り続けてばかりだった気がする。

 

自分が本当に悪い事をしたのかどうかではなく、自分の言動による相手の反応が基準だった。

 

私が謝る事で相手が喜べば、また相手に気に入られれば自己の主張などどうでもいい

 

何よりも

 

受け入れてもらえている

 

と思えるかどうかが一番大切だった。

 

「相手に合わせる」事の意味を完全に取り違えていたと思う。恥ずかしい話だが、その為に大切な人を心底傷付けた事もある。

 

その後も別の環境で傷付け合うことはあったが、あれ程無責任な傷付け方は無かったと今でも思う。

 

 

自己の主張を貫くことは時としてとても厳しく難しい。

 

そして全ての人に理解し、賛同してもらえはしないし、どの場面においても単純に貫けば良いというものでもないと思う。

 

一方で他人の評価を基準にせず、自分に自信を持つ事はとても重要だ。

 

 

ではどうするか

 

必要なのは分かり合えず、賛同されない可能性を常に念頭に置き、

 

「時間をかけ、対話する」事。

そこに賛同を求めるのではなく

 

相手の意見を、そして相手をそのままに受け入れる事

 

但し、互いに極力本心で臨む事が条件であり、この一番のハードルを超えられるかどうかは双方にとってより難しいことかも知れない。

 

 

私が傅かせる過程で全てをさらけ出させるのは、常に自身に対してオープンであり、同時に確固たる自信を持って欲しいからだ。

 

そうして得た自信とともに周りと向き合う。そして自己を捉え直す。

自分の可能性、そして同時に相手の可能性を探る

 

 

そうした人々が増えるなら、私にとってより刺激的で興味深い時間が過ごせるに違いない

 

更なる美しさや力強さに溢れた人々が、1人、また1人と私の前で膝を折る姿、、、。

過去の自分への戒めとして、故にこの上ない至福となるに違いない

 

選んだ道は間違っていないようだ

 

 

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