「彼女は本当に頑張って日本語を勉強したんだって」
母の言葉
でも私が真っ先に考えたのは
「それって特別な事なのか?」
以前放映されていたドラマの主人公が、日本語が出来なかったのに、頑張って日本語を練習してドラマの撮影に臨んだらしい
そしてそれをテレビか何かで言っていたのを聞いた母が放った一言
聞いた瞬間様々な思いが去来した
え?出演が決まった時点で分かったことじゃないの?
(以前書いたように)ある種のコンプレックスからじゃないの?
変に神格化して聞こえる、、、。
例えば、仕事でいずれ外国語でのコミュニケーションが必須であり、就職した後に研修が義務付けられたとして、
「私研修で語学力頑張ってあげてるんです。すごいでしょ!」
とは言わない(言えない)だろうし、周りもそれが前提なので何ら特別だとも思わない。
本人の努力とは関係ない話だからだ。
そして最近特に気になる特別視や神格化。
一個人が一個人の話を直接聞いたり、経歴を知ったりして
「すごいなあ、憧れるなあ」
と思うのはいい。
しかし”お仕着せ”のすごいね、憧れるねは願い下げ
そして暗に共感を求められるのはもっと願い下げ
外に出す、伝えるのはいいが、どうも「言わされている」感じがする
一方で、私に直接共感を”押し付ける”勇気のある人間なら、
腕がなる
何かに共感するときは、言葉での確認など後付けで感覚で感じるものだ
反対に共感していない場合も感覚で感じられる
私はこれが好き
私は好きじゃない
どちらも否定せずに認められるのが理想
神格化するのが好きなんです
誰かを特別視して憧れるのって気持ちいいんです!
、、、分かってる。だから今これを読んでいるんでしょ?
なら、期待外れにはさせない
それを否定する「この私」を崇めなさい。