崇高であること


自分の進むべき目的がある時、どういった行動をとることが”適切”なのか、どういった行動をとることが”正直”なのか?


自分自身を高め、より可能性を拡げ、既にある能力を最大限に生かそうとする時、一体何を基準にするのか、正直自身でも分からない時がある。





最近では、以前にも増して相手の本心を掴み、本人すら気付いていない望みを気付かせることができる。


人はそれに気付かされると、驚くと同時に深い安堵感を覚え、より自分を信じて愛せるようになる。


そしてそれを指摘してくれた人に畏敬の念を持ち、時には特別な感情すら抱く。




用いる手法として、相手が男性であればより女性らしさを強調し、また相手がより女性らしくありたいと願う場合には、自分の男性面を強調して接する。




必要であれば、女性に性的な意味で自分を特別視させる方法が有効な場合もある。


その一方で、男女共にどこまで関わりを持つのかはかなり重要な点であり、自身の経験上、望む形ではなく距離感があいまいになるケースがある。



私を独占できるのは、真に私が認めた相手のみである




ことを分からせるのが困難な場合も多い。今後に向けての課題である。


世界が私を待っている現状では、人を傅けたいという欲望とは別の情動に一線を置き、表に出すとしても”人を傅けながら”行うことを自身に求めている気がする。


本来はバランスをとって行えるのだと思う。でも今だそこには至っていない。



内面のエネルギーを比較する必要はないのだが、バランスを取ることなしには、情動そのものの崇高さや純粋さが失われる気さえする。



自身の情動に従うときは、真に情熱的でありながらも、崇高で気高くありたい。



今の自分にはそれが一番”適切”かつ”正直”であると感じる。




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